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2005.06.14

大多数との関わりに思う

 自宅の鏡では気がつかなかったのだが、今日、職場のトイレの大きな鏡で自分の顔を見てみたら、肌が黒く焼けているのがわかった。私は鏡を見ながら、一人でにやけていた。紫外線なんて気にしない。この肌の焼き具合は、私の勲章だ。何てったって、愛シチュー焼けなんだから。

 私は職場で使っているIDカード入れを、愛シチュー博で買って来たモリゾーとキッコロのIDカード入れに差し替えて、愛シチュー博の余韻をひっそりと楽しんだ。もともと緑が好きな私は、それだけでも楽しい気分になることができた。

 平日だというのにものすごい人で賑わっていた愛シチュー博だったが、そこで私たちが見せられたものは、「大多数」というテーマだった。例えば、お昼ご飯を食べるにも、たくさんの人が並んでいる。厨房にいる人たちも、カウンターにいる人たちも、それこそオーバーヒート寸前の状態で動き回っている。注文を間違えたり、お客様をお待たせしてしまってはいけないと、彼らの目つきは真剣だ。そこまで真剣にフル回転させていても、大多数を前にすると、一人一人の関わりが希薄になってしまう。ありがとうございました、という言葉が機械的になる。お昼どきという一番のピークを過ぎれば、彼らは精神的にも肉体的にも消耗し切ってしまうのではないだろうか。

 私は、注文した料理を待ちながら、自分のホームページの掲示板での交流と重ね合わせて考えていた。すると、厨房やカウンタで動き回っている店員さんたちが、私の分身であるかのように思えて来た。料理の出来上がりを待っているお客さんたちは、料理に対して何を求めているのだろうか。スピードだろうか、それとも、丁寧に作り上げられたおいしい料理だろうか。中には先を急ぐお客さんもいらっしゃることだろう。何でもいいから速く出して、と言われるかもしれない。お客のニーズに合わせて行くこと。それがお店の宿命なのだろうか。

 愛シチュー博は、とにかく熱いところだった。今、ここで働いている人たちは、たまたま仕事に就いていなかった人たちなのだろうか。もしそうなら、愛シチュー博の期間中だけでもここで働けるのだから、ラッキーとしか言いようがない。愛シチュー博の会場で働くことができたなんて、一生の想い出になることだろう。しかし、愛シチュー博の会期が終わってしまえばすぐに解散だ。だとすると、限られた期間だけ、彼らは完全燃焼するのだろうか。

 愛シチュー博で撮影した写真を整理しながら、ガンモがモリゾーとキッコロと一緒に写っている写真を見つけて、突然、涙が噴き出して来た。そこには、ガンモの屈託のない笑顔が映し出されていた。ああ、私はこの笑顔を守りながら生きて行く。こうして、シチューという大きな単位から、ガンモという最小単位の愛に、私は再び着陸した。

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