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2005.06.23

愛の深さと縁の深さ

 いろいろな方々のブログを拝見していると、多くの異性たちとの出会いに恵まれているにも関わらず、絆の強い交際にまで発展しないといったブログを見掛けることがある。特に最近では、ネットにおける出会いが殊のほか盛んになっているようだ。しかし、多くの異性たちと出会い、肉体関係を結ぶほどの恋愛にまで発展するものの、何となく疎遠になってしまい、やがては縁が切れてしまうといったパターンを繰り返している人がいるようだ。このような展開は、縁はあっても、関係を持続させることのできない、愛のない関係の典型だと思う。

 少し前に、私のホームページの掲示板に、出会った男性との間にいろいろなシンクロ現象が起こっているが、その男性とは年も違う上、自分とはまったく異なる存在なので、その関係を進行させて良いものかどうか戸惑っている。縁があれば結婚したいのだが、といったような書き込みがあった。私は、その書き込みに対し、以下のような返信をさせていただいた。

直感的と言うよりも、私の気持ちを率直に書かせてください。

「条件」がいいから結婚するわけではないと思いますよ。
だから、年齢差があるからとか、住んでいる世界がまったく違うとか、
そういったことがらが気になるのであれば、
例え結婚してもうまく行かないかもしれませんね。

うまく行く結婚とは、年齢差があっても愛があるから関係ない、
住んでいる世界が違っていても自分の違うものを持っている相手だから吸収できる、そういう関係だと思います。

それができるかできないかを「縁」と決めてしまうのは、
愛をベースにした考え方とはちょっと違うと思っています。
例えそれができなかったとして、「縁」がなかったというよりも、
「愛」がなかった、と私は判断します。

> まだ行動を起こしてないので縁が無い(縁が決まってない)のであれば
> やめようかと思っています

愛を大切に生きている人が、こういう言葉を聞くととても悲しくなります。
もう一度、何が一番大切なのかをじっくり考えてみてください。
私はこのサイトで、もっとも大切なものは何かを一生懸命書き綴っているつもりなのですが。

厳しい書き方をしてしまって、申し訳ありません。
でも、結婚の素晴らしさ、愛の素晴らしさを伝えて行く者として、
どうしても書かずにはいられなかったのです。

 私は、縁があるから結婚するのではなく、愛があるから結婚するのだと思っている。縁はただ、二人を引き合わせるきっかけに過ぎない。もしもこの先、二人の間に多大な困難が待ち受けていたとして、それを二人で乗り越えて行くことができるのだとしたら、この二人の間には縁があったのではなく、愛があったと表現するほうがふさわしいと思うのだ。

 だとすると、縁とは、単なる種であり、愛とは、その種に水をやったり肥料をやったりして育てて行くものなのだろうか。いや、違う。世の中には、「愛を育てる」などという表現もあるが、私は、果たして本当にそうなのだろうかと疑問に思ってしまう。愛を育てるって何だろう。「育てる」という表現の中には、最初は小さくて、やがて大きく成長して行くといったイメージがある。そうなると、育って行った愛は、やがて飛び立って行くのだろうか。

 愛はいつも同じ大きさで、縮小したり拡大するように見えてしまうのは、単に自分の中の愛が不足しているだけなのではないだろうか。そう、私たちが、覚醒しているときにだけ、神の存在を実感するときのように。

 愛が純粋であればあるほど、愛することと愛されることが同時に起こって行く。そうなると、シンクロ現象も、もっと内的なものへと変化して行く。そして、縁を感じさせてくれたシンクロ現象も、単に外的なものに過ぎないと気づいて行くことだろう。もしも徹底的に縁にこだわるなら、外的なシンクロ現象よりも、内的なシンクロ現象のほうに注目したほうがいいのかもしれない。内的なシンクロ現象とは、魂と魂が深く関わることによって生じる、相対的なシンクロ現象を意味する。

 愛があれば縁は切れず、例え縁が切れたように見えても、愛はどこまでも続いて行く。そういう関係を築くことができたとき、愛の深さは縁の深さとイコールになる。これが、私なりの持論だ。

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