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2004.12.06

デザートは別腹?

 最近の私は、ブログのコメントにトラックバックさせたいただきたい気持ちでいっぱいである。先日、愛と人生ってなんだろうねセックスについてのイメージに、不合理ゆえに我信ずのmori夫さんがコメントされているのに反応して、以下のようなコメントを書かせていただいた。引用部分はmori夫さんのコメントである。

> 性的に愛し合うのは、なぜ”ただ一人”でなければならないか。
> 愛は、そんなに”1対1”でなければならないものなのか。
> 同時に複数の相手と、それを行ってはいけないとされるのはなぜか。


またまた突拍子もないコメントになりますが、
多対多の関係をバイキングで食べる料理に例えてみると、
いくつものお皿に料理を取って食べているときに、
お皿にまだ料理が残っているにもかかわらず、別の料理を取りに行くのだとしたら、
周りの人はあまりいい気はしないですよね。
でも、その人が本当に大食いで、どのお皿の料理もすべてきれいにたいらげた上で、
次の料理を取りに行くのだとしたら、批判はされないですよね。


つまり、まずは一つの対象に対し、徹底的に関わっていることが前提なのではないでしょうか。
そして、Aさんと深く愛し合っているまさにその最中に、
Bさんのことを決して除外したりせず、Bさんとも深く愛し合える状態にあること。
Aさんと深く愛し合っているまさにその最中に、Bさんを寂しく思わせたりしないこと。
これができていないから、複数の対象との関わりを気持ち悪いと感じてしまうのだと思います。
誰も傷つけることなく、AさんもBさんも同時に深く愛することができれば、
その愛は澄み切っていて、とても素晴らしいものだと思います。
でも、肉体関係を含めた上で、これを実践できる人は、そういないと思います。
神々は、多対多で性交しても、すごく楽しそうにしてますけどね。

 実は、このコメントを書きながら、私の中には、普段から感じている別の想いが急浮上して来た。それは、共存可能な愛とそうでない愛があるということである。共存可能な愛は、バイキング料理で言うところのデザートに相当するのかもしれない。つまり、別腹に入るのである。多くの人は、親子の愛は共存させることができるのに、男女の愛はなかなか共存させることができない。これについては、これまでにも私のホームページの掲示板でもとことん語り合って来たことなのだが、結局のところ、男女の愛は肉体関係を持つという意味で、とにかく特別なのだという結論に達している。

 でも、私は思うのだ。もしも魂の探求に終わりがないのだとすれば、一つの密な愛を体験した魂は、別の魂とも深く結び付いてみたいと思うのではないだろうか。そして、自分と深く関わったことのある魂が、別の魂との密な愛を経験している姿を見守ることは、その魂にとって、大きな喜びなのではないだろうか。

※この記事のままでは、親子の関係をデザートに例えるなんてけしからんというお叱りの言葉を受けそうなので、ここで訂正させていただきます。強調したかったのは、「デザート」よりも「別腹」です。しかし、うっかりデザートと書いてしまったのは、私自身が男女の愛をテーマにした人生を送っているからだと思います。ある時期まで、私とガンモの間には、子供が入り込む余裕などないと思っていました。でも、もしも子供の存在が別腹だとすると納得できるできるような気がするのです。しかし、こればっかりは、経験してみないと詳細には語れません。

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