「所有」について
アルベルト・モラヴィアの『倦怠』という小説を読み終えた。お金持ちのご子息ディーノが、いつまでも情熱を持続させることができずに、突然、これまで情熱を持っていた対象から切り離されたような感覚に陥り、その対象がやがて、自分とはまったく関係のないものに変化してしまうという「倦怠」の悩みを抱えている。ある日ディーノは、まだ十代のチェチリアという女性に出会う。二人は決して恋に落ちたわけではなく、好きとか愛しているとかいう感情を介さないまま、肉体的な関係に溺れてしまうのだが、チェチリアのアプローチが熱心なので、ディーノは自分がチェチリアに愛されているものと思い込んでいた。やがてディーノは、チェチリアに十分愛されていると感じることで、再び「倦怠」を感じるようになってしまう。ところが、ある時点から、ディーノに対するチェチリアの行動が、これまでほど積極的ではなくなってしまう。ディーノはチェチリアに十分愛されていると思っていたはずなのに、チェチリアからの愛情を十分に感じ取れなくなってなってしまい、チェチリアを猛烈に「所有」したいという気持ちに駆られてしまう。ディーノがチェチリアを「所有」していると感じられるのは、彼女と肉体的な関係を持っているその瞬間だけだった。所有欲のために、ディーノはこれまで以上に激しくチェチリアを求めるようになる。
私は、相手を「所有」したいと思うのは、二人の気持ちがアンバランスであることの証であるように思う。言い換えると、二人の気持ちのバランスが取れているときは、相手を「所有したい」という感情は生まれないのではないかということである。私はガンモを所有している。ガンモは私を所有している。どちらもピンと来ない。「所有したい」と思わないのは、お互いに、相手がどこにも行かないことを知っているからなのだろう。反対に、「所有したい」と思うのは、「所有していない」という現状の証でもある。すなわち、相手が自分の元を去って行くかもしれないという心配があるために、先回りして、「所有したい」と思うのではないだろうか。つまり、相手を「所有したい」と思うかどうかは、二人の間に信頼があるかないかの違いだと思う。
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