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2004.10.25

ネットにおけるコミュニケーション

 今日は、体調が悪かったので仕事を休んだ。午後からは、だいぶん調子が良くなって来たので、あちこちネットを徘徊し、人にはそれぞれの学びがあることを改めて実感させらされた。私は、ガンモと結婚して本当に良かったと思った。ガンモこそが、私の学びにぴったりのパートナーだ。そう思うと、感動で涙が溢れて来た。早くガンモが仕事から帰って来てくれないだろうかと思った。

 ネットは、個人の主張の世界である。私自身も、このガンまる日記やいくつものホームページの中で、自分自身の主張を思う存分書き綴って来た。それらの主張を快く思ってくださる方もいれば、そうでない方もいらっしゃるだろう。そして、ネットを中心とした人付き合いというものを考えたときに、これらの主張がうまく噛みあう場合とそうでない場合があることを、私はいつも認識させられている。ホームページを開設してからというもの、どれだけたくさんの人たちとお近づきになり、そして疎遠になって行ったことだろう。疎遠になって行った人たちとは、お互いの主張が次第に噛み合わなくなって行った人たちである。

 ネットの世界は、検索エンジンを駆使すれば、自分が知りたいと思うことに比較的たやすく辿り着くことができる。しかし、そこからひとたび交流が始まると、お互いに相手の主張を受け入れて行かなければ先には進めなくなってしまう。いつも片方だけが語り、いつも片方だけがうなずき続けるわけには行かないからである。お互いに、相手の主張を受け入れられる凸凹の関係(凸とは、主張する側。凹とは、主張を受け入れる側)でなければ、すぐに疎遠になってしまうのだ。ネットの世界は、比較的それがわかりやすい世界だと言える。

 ネットの世界で知り合った人で、もっとも長く交流が続いているのは、まぎれもなくガンモである。当時はまだパソコン通信が主流の時代だったが、今ではネットにおける出会いなど当たり前の時代となった。ガンモと私は、お互いの主張が噛み合ったというよりも、運命共同体としての結合が起こった。そういう意味で、ガンモとの関わりは特別である。

 その次が、そろそろ交流期間が5年になる某氏だ。某氏と私のやりとりは、他の人が見るとわけがわからないらしい。確かにそうだろうと思う。敢えて前提条件を提示する必要がないので、毎回細かな説明を省いてしまうのだが、他の人には省いた部分の説明が必要らしい。お互いに厳しいことでも言い合えるので、とても心地の良い関係である。しかし、喧嘩も良くする。それが、周りから見ると、近づき難いほどの独特な凸凹の世界を確立させているようだ。某氏曰く、某氏と私の対話は、単に耳元を通り過ぎて行くだけでなく、脳ミソにまで到達するやりとりなのだそうだ。これは、なかなか言い得て妙である。

 それから、ホームページの掲示板で、根気良く交流し続けてくれている仲間たちがいる。彼らとの関係も、長くて3年くらいになるだろうか。掲示板のピンチを何度も救い、私を叱咤激励してくれた、大変ありがたい存在である。ときには、耳を塞ぎたくなるような厳しい意見を言い合うこともあるが、厳しい意見を言い合ったことなど、一瞬のうちに忘れてしまうようなエネルギーが流れることがある。こうなると、まるで家族みたいな心地よい関わり方に発展して行く。

 私自身、ネットの世界でそういった貴重な関係を築いて来たので、コミュニケーションの凸凹に関しては、人一倍厳しい目を持っているのだと思う。ネットに見受けられるコミュニケーションのほとんどが、陽だけの要素(つまり、肯定だけの要素)を持っている。つまり、都合の悪いことは黙っている関係だ。その要素はまだ、陰(ネガティヴ)を乗り越える前の段階である。更に、そこまでの関係に発展できないまま、疎遠になってしまうことを、私は大変もどかしく思ってしまう。だから私は、仲良くなりたい人が出て来ると、
「喧嘩しましょうか」
などとと申し出てみる。それに対する相手の反応は様々だが、実際のところ、陰陽両方の関係を築いていけるのは、ほんの一握りに過ぎない。だからこそ、他の人たちの主張を拝見したときも、自分がその人の凹になれるかどうかを直感的に判断し、コミュニケーションの入口を見極めたくなるのかもしれない。

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