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2004.07.15

自己愛について考える

 今日予定されていたエアロスミスの広島公演が、メンバーの怪我により、中止になってしまったそうだ。私はエアロスミスのファンではないが、これまでに何度か、切符を買って楽しみにしていたアーチストのライブが延期になった経験がある。

 一つは、ヴォーカルのジョン・アンダーソンの怪我により、来日が半年間延期になってしまったイエスの公演。このとき、多くのファンは、ジョン・アンダーソンの怪我の具合よりも、公演が延期になったことを嘆いていた。つまり、自分の心配をしていたのだ。私は、ファンとしてそれは違うだろうと思っていた。まるで、人身事故のために遅れた電車を恨むかのようだ。

 もう一つは、ヴォーカルの草野正宗が風邪を引いたため、延期になってしまったスピッツの公演。このときは、正宗以外のメンバーが舞台に登場し、正宗からのメッセージを読み上げ、みんなに深くお詫びした。しかし、私の知る限り、スピッツのファンはうれしくなるほど理想的で、自分のことよりも、正宗の病気のことを本気で心配していた。

 これらは、あくまで、愛を知る上でのサンプルに過ぎない。楽しみにしていた予定を変更しなければならないような状況が起こったときに、自分のことを優先させて考えるか、それとも、予定変更の原因となった人のことを気遣ってあげられるかどうか。どちらが愛のある行為かと言うと、間違いなく後者だろう。

 そう考えて行くと、例えば「寂しい」という言葉一つを取ってみても、その言葉が本当は、相手のことを気遣っているのではなく、自分の状況を述べたもの、すなわち自己愛に過ぎないということがわかって来る。その前に、愛する人を寂しくさせてしまう相手の状況を把握しなければならないのだが。

 多くの恋愛において、相手への愛よりも自己愛を重んずるケースが多いのは、非常に残念なことである。また、人が自己愛に走ろうとするとき、その原因を辿って行くと、別の自己愛が息を潜めていることが多い。つまり、自己愛が自己愛を呼び、悪循環となっているようだ。

 私が誰かの愛のはなしに耳を傾けるとき、それが自己愛なのか、相手への愛なのかに注目する。たとえそれが自己愛のように感じられても、両者の間に分離が見られないのであれば、それはとても美しい。しかし実際のところ、自己愛の多くは、相手と分離した個々の自己愛に過ぎないことが非常に残念である。

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