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2004.07.11

私の結婚観

 人は結婚観を語るとき、自らの経験に基づいて語ろうとする。だから、幸せな結婚をしている人が結婚について語れば結婚の素晴らしさを強調することになり、反対に、苦悩の多い結婚をしている人が結婚について語れば、結婚の不自由さを強調することになる。

 今日、読ませていただいた日記の中に、凄まじい夫婦関係を綴ったものがあった。それは、性欲の激しい夫にセックスを強要されるという内容のものである。その夫は子供の寝ている前でも妻にセックスを強要し、妻はそのことで夫に対して不信感を持ち、家庭内離婚のような状態に陥っているらしい。

 はっきり言ってこれは、愛のない夫婦の話である。愛のない夫婦が結婚について語れば、自由意思の狭さを強調するものになってしまう。しかし、これと同じようなことを愛のある夫婦に当てはめた場合、状況がまったく異なって来るのではないだろうか。

 まず、愛のある夫婦は、セックスを強要したりしない。これは絶対である。何故なら、セックスそのものが、自分の欲求を満たすためのものではないからだ。更に、セックスを強要されなくても、相手に応えようとする。

 それから、子供の前でセックスをするということについて。私たち夫婦には子供がいない。それは、積極的に子供が欲しいとは思っていないからだ。そのように思うには、妊娠・出産に対する恐怖心の克服が必要であるなど、いろいろな理由があるのだが、その中の一つに、夫婦であれ、子供であれ、愛情で結ばれた対象とは対等な関係でいたいという強い想いがある。夫婦の間に秘密がないのに、子供ができると子供に秘密を作ってしまうのは気持ちが悪いのだ。言い換えると、もしも私たちに子供がいるとするなら、子供にもセックスを見せたい気持ちがあるということだ。何故ならセックスは、男女のもっとも愛情ある行為だと思うからだ。そのもっとも愛情ある行為を子供に隠しながら生きなければならない社会に、私は反発したい。愛情ある夫婦のセックスを子供に見せることは、エロ本やエロビデオなどの存在よりももっともっと大切なことなのではないだろうか。

 このように、どのような結婚をしているかで、人々の結婚観は大きく異なって来る。だから、結婚観を語れば、その人がどのような結婚をしているかがわかる。愛のある結婚をしている人は、「制度」という枠の中から外れ、むしろ「自由」に生きている。しかし、例え「自由」であっても、決して脱線したりしない。反対に、愛のない結婚をしている人は、結婚を「制度」ととらえ、その「制度」に甘えようとする反面、「制度」というしがらみの中で生きることになる。そして、結婚が不自由であると嘆く。

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